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“しつけ”という言葉のもつ深い意味

木曜日, 6月 11th, 2009

 今回は、躾(しつけ)という言葉について考察してみます。ご存知かもしれませんが、「躾」は、中国から伝えられた漢字ではなく、日本で考案された漢字であり、いわゆる「国字」と呼ばれるものです。峠、凪(なぎ)、働、畑、辻などもこれらの仲間だと言われています。

 この「躾」という漢字を分解すると、「身」と「美」になり、「身だしなみを美しくする」と解釈できます。「なるほど、よくできたとても素晴らしい漢字だ」と、思われるかもしれませんね。実際、文化人などがそういう感想を書物に書いているのを目にしたことがあります。

 岡本夏木先生(元京都大学・京都女子大学教授)は、幼児の言葉の発達の研究者として知られています。ご高齢になられましたが、今なお先生の著作の数々はいささかも説得力を失っておらず、言葉の発達に関心をもつ多くの人々に読まれています。

 その岡本先生の著作に、「しつけ」について書かれている興味深い文章がありました。「しつけ」という言葉は、もともと「着物を仕付ける」ということに結びついて成り立ってきた言葉であることを受け、「しつけ」という言葉の本質について言及されたものでした。幼児や小学生をもつおかあさん方に参考にしていただける話だと思いますので、ご紹介してみましょう。

 先生は、「『躾』という字がもたらす意味よりも、この『着物の仕付け』を背景とする意味のほうが、子どもをしつける過程の本質をよく表しているのではないか」と述べておられます。ご存知のように、「仕付け」とは、着物の形が整うよう、仮に縫いつけておくことを言いますが、そこで大切なことは、着物がやがて縫いあがると、仕付けの糸がはずされるということです。着物の完成をもって、もはや仕付けの糸はそこにあってはいけないものになるのです。

 以下は、岡本先生の著述からの引用です。

 (省略)五歳から七歳の子どもたちは、いよいよしつけ糸をはずしはじめる年齢にあたります。それまでは親が外側から枠組みを与えて、子どもに行為や生活習慣をかたちづくらせていたのですが、いよいよその枠をはずして、子どもが自分の力でみずからの行為や生活習慣を生み出しはじめる時期に入っていきます。

 しつけ糸をはずすことは、いうまでもなく、子どもを本人の自律にゆだねることです。しつけとは、もともと自律に向けてのしつけなのです。外からの強制によって社会のきまりをあてがうことよりも、むしろそうした外的強制をとりはずすことをめざすものです。しつけが不要になるようにしつける、といってよいかもしれません。

 このようにのべてきますと、私のいう「しつけ」は、読者の方々が一般に「しつけ」ということばから受けとっている意味とかなり違っているといわれるかもしれません。ふつうには、「しっかりと」とか「きちっと」「きびしく」することこそがしつけの第一の目的におかれるのではないでしょうか。それに対して、私のここでいっている「しつけ」は、そういう外からの規制をとりはずして、不要なものにしてゆくことこそ、しつけのねらいなのだと言っているのですから。とまどいを与えるようで申しわけないのですが、しつけの中で、そのねらいが見落とされていたら、それはけっきょく外見だけのしつけ、子ども不在のしつけに終わってしまうと思うのです。

 子育てにおいて、私たちはいつのまにか肝心なことを忘れがちです。「しつけとは、やがてそれがはずされるものであるという前提に立って行われるべきものだ」ということもその一つかもしれません。この前提に立ってしつけにあたっているかどうかが、子どもにとって大切な自律と深く関わっているのだという指摘は、とても的を射たものであると思います。

※岡本夏木先生は、2009年にお亡くなりになりました。

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