子どもを取り巻く環境の変化と子育て
木曜日, 2月 4th, 2010
近年は、地域社会の教育力が衰退していると言われています。これは、もうずいぶん前から指摘されていることですが、ますますその傾向が強くなっているように思います。地域の教育力が低下すると、家庭単位での子育ての負担もそれだけ大きくなります。子どもが勉強しなくなりつつあることも、当然の成り行きかもしれません。
原因はいろいろあるでしょう。核家族化の定着で、子どもの周囲におじいさんおばあさんがいなくなったこともその一つだと言われています。近所の子どもが集まって遊べるような広場もすっかり少なくなりました。そもそも、子どもたちがみんなで群れて遊ぶことを志向しなくなっていることも言えるかもしれません。携帯電話や電子ゲームは山奥に住む子どもたちをもとりこにしています。このような子どもをとりまく環境の変化は、様々な形で子どもから勉強を遠ざけているように思えてなりません。
あるとき、アメリカの有名なカウンセラーの本を読んでいると、子育てが難しくなっている現実とその原因について書かれていました。そして、今やアメリカも日本も状況は同じであることに改めて気づかされました。筆者が着目した部分をご紹介してみましょう。
二十年前、近所の誰もが、同じ価値観と信念をもっていた。例えば、どこに遊びに行っても、規則は同じであった。どの親も同じ期待をもっていた。今はそうではない。すべての家族は独自の規準をもっている。子どもは正しいことと間違ったことについて、さまざまな解釈があるのを経験する。これは子どもにとって、まことに紛らわしいことだろう。
社会のこれらの変化は、子どものしつけ方にどのように影響するだろうか。古いやり方は、単純な社会における解決策だった。今日の問題はより複雑である。それらは、きめこまかな解決策を必要としている。子どもは過去ではなく、未来に生きている。だから私たちは現代の困難な状況に対処する必要がある。もし親として成功したいなら、現代の子どもをどうしつけるかを心得ている必要がある。親は、訓練されなければならない。今の親に能力がないからではなく、親であることが容易でなくなった時代だからという理由で。
家の内と外の行動基準が異なると子どもは戸惑います。何がよくて、何がいけないのかの判断が混乱してしまうからです。しつけ・教育が家庭ごとに違っていると、地域社会は子どもを方向づける力をもち得ません。
家庭ごとの生活スタイルがほぼ同じで、価値観も違っていなければ、子どもも大概は同じような暮らしをし、近所の子どもが連れもって楽しく遊ぶことができます。そういう毎日のなかで、自然と大切なものを身につけたり、他者から触発されたりする機会もあるでしょう。
かつての日本の地域社会は、どこでもそういう機会を子どもに与えてくれました。以前、発達心理学者の岡本夏木先生の子ども時代のエピソードをご紹介したことがあります。先生は、ガキ大将だった近所の上級生との交流を通じて、漢字に興味をもち、ものを知ることへのあこがれを抱いた経験を著書に書いておられました。この経験が先生の人生に意味をもたらしたことは想像に難くありません。
今日の日本でそういうことが期待できるでしょうか。残念ながら、子どもが本を貸し合ったり、上級生が下級生に本を読んでやったり勉強を教えてやったりする光景を見ることはほとんどありません。
こうなると、しつけや教育はプライベートなものになっていかざるを得ません。学校から帰った子どもが、鉄砲玉のように家を飛び出し、暗くなるまで帰ってこない。そんななかでも学力優秀な人間が育っていたのは昔のことです。今では、親が意図して子どもを勉強に向かわせる算段をしないと、子どもが自分から勉強に向かうようになることはありません。
かつては塾に行かなくても、学力を自分で培い、優秀な大学へ進学する人間がかなりいたものです。しかし、今日ではそういったことを可能にする環境が子どもに用意されていません。「自分の子だから、いずれ勉強で頭角を現すだろう」と思っていたのに、いつまで経ってもその兆候が表れない。そういう話をよく耳にしますが、かつて自分を育ててくれた環境と、今のわが子のそれとは同じではないということを、親は省みる必要があるでしょう。
中学受験は、そういった意味においても着目に値する存在ではないでしょうか。子どもに目標をもたせ、一生懸命に学ばせる。受験の合否結果より、それをめざしたプロセスから得られる収穫が少なくないのです。それを思うにつけ、進路選択の手段としての中学受験ではなく、子どもの可能性を広げるための中学受験という発想が、もっとあってもよいのではないかと筆者は思っています。
実際、弊社の教室で学んでいる子どもたちは、生き生きとした表情をしています。いつも笑顔が絶えません。そこには、入試突破のために辛さに耐えて勉強をしているといった趣はありません。いかにも学ぶのが楽しいといった風情です。こういう体験こそ、本来どの子どもにもさせる必要があるのだと思います。それが、もはや塾のような特定の場所でしかできなくなっているのが現実ではないでしょうか。