勉強は自分のためにするもの
9月 5th, 2011
前回のブログ記事は、「なぜ勉強をしなければならないのか?」という子どもの疑問に対して、親としてどう答えるかを考えていただくようお願いして終わりました。どうでしょう。「こう言ってやりたい」という明確な答えが見つかったでしょうか。
一昔以上前なら、子どもの側から「貧しさから抜け出すため」「社会に役立つ人間になるため」「病気の人を助けたい」などという動機がありました。しかし、何もかも恵まれている今日の子どもたちにとって、勉強は「なぜしなければならないのか」という疑問の対象になりがちです。
少し話が横道にそれますが、先日新聞に興味深い記事がありました。あの東日本の大震災後、東北地方の学校ではいじめが激減し、学校の授業が以前よりもスムーズに行われるようになったそうです。平穏無事に暮らせること、勉強できる環境があるということがいかに有り難いことかを、子どもたちが身にしみて感じたからであろうと思います。
この話に照らすなら、なぜ勉強をしなければならないのかという疑問がわいてくること自体、おかしなことなのかも知れません。勉強を心おきなくできるということは、無条件に幸せなことなのですから。
さて、「なぜ勉強しなければならないの?」という子どもの疑問に対して、元校長先生はどういう答えを用意されていたでしょうか。ご紹介しましょう(字数の関係で、若干調整しています)。
私はふだん生徒にこんなことを話しては、ともに考えるようにしています。
「人間の最も幸福な一生とはどういう生き方を言うのだろう?『鳥の死なんとするやその鳴き声よし』『人の死なんとするやその言よし』と昔から言っているが、自分の限りある人生、生命を自覚したときには、人間は必ずよいことを言い、自然に世の中の役に立つ、人のためになる何かをしたくなるものなのだ」と。
「きみたちが勉強するのは、結局はそのためなんだ。しかし、初めから世のため人のために役立つことを考える必要はない。まず、自分を磨き、鍛え、自分の幸福を追求しろ。自分に厳しい態度をもち続けられれば、いつか自然に人の役に立てるようになる。それが最高の幸福ではないだろうか」
いささか理想論過ぎ、いかにも世間知らずの教育者の弁と受け取られるかも知れません。しかし、子どもを説得するためには、あくまで、理想を提示しなければなりません。子どもというのは、親には想像もできないほどの向上心と、理想に対するあこがれをもっているものなのです。その理想を、現実の場に押し当ててねじ曲げる権利は親にはありません。
「なぜ勉強しなければならないのか?」を教えるのは男親の役割です。父親がいなければ、おじいちゃんでもよいでしょう。男というものは、ロマンチックにできています。人生の理想を語るには、母親よりも父親のほうが都合がいいのです。
「努力して勉強するのは、他人のためではない。おまえが毎日の生活を楽しく、退屈しないよう、豊かに暮らすためなんだ」と教えてやってください。
父親は、子どもにとって社会とつながっていく接点であるとよく言われます。最近は、共働き家庭が多いので、必ずしもそれは当てはまらないかも知れませんが、男の特性について書かれているような点から言っても、「なぜ勉強か」の答えは、おとうさんからお子さんに伝えるのがよいのかも知れません。
ここまできて、ふと筆者はわが愚息とのやりとりを思い出しました。中学受験をめざして勉強していた5年生のころのことです。ふだんは頑固で親の言うことなど聞こうとしないわが愚息でしたが、人間としてどういう生き方をすべきか、今の自分のありかたのどこを反省すべきかについて一生懸命語って聞かせているとき、ふと愚息が目にいっぱい涙を浮かべているのに気づいて驚いたことがあります。
先ほどの元校長先生の言葉のように、子どもには親が想像できないほどの向上心や理想を追い求める心があるのかも知れません。初めから子どもにやる気がないものと決めつけるのではなく、子どもにある向上心ややる気を信じて接してやるべきだったと改めて反省しています。もはや親の手を離れた愚息ですが、親の期待や愛情が少しでも伝わっていることを願うばかりです。
親の目から見たら、子どもにはやる気も自覚も足りないように見えるものです。しかし、子どもの心には純粋な向上心や理想を追い求める気持ちがあるのです。親それぞれに自分の言葉で「なぜ勉強をすることが大切なのか」を語って聞かせてあげてください。これから先もおそらく親の心配の種は尽きませんが、きっとお子さんはそのときの親の言葉を忘れることはないと思います。