剣の道は、学問を究める道に通じる ~その1~

12月 22nd, 2008

 その昔、剣の道を極めるために修行に打ち込んだ人は、その過程を「守」「破」「離」という三つの段階に分けて語ったそうです。

 「守」とは、ある流儀をまねて学びとる段階です。それによってその流儀を会得するのです。次は、学びとった流儀を自分なりに見直し、手を加えていく段階に至ります。これが「破」です。そして、ついには学んだ流儀を超え、より次元の高い流儀を自ら編み出します。この段階が「離」です。このように、まねることから始め、やがて自分の流儀に到達するまでのプロセスを「道」と呼びました。「守」「破」「離」は、現在では茶道を始め様々な習い事・学びごとにおいて使われているので、ご存知の方も多いことでしょう。

 ある本に、この「守」「破」「離」を子どもの勉学の道になぞらえた興味深い記述を見つけました。

 『小学校での「読み・書き・算」という、基礎能力の習得にあたって、あれも大事、これも大事とばかりまねるべき基礎が細分化され、結果的には思考力の基礎となる読み・書き・算の内容が量的にも質的にも減少している。つまり、「守」も、「破」も形骸化しているから「離」の段階、すなわち創造することができない。脳は、「守」と「破」の段階で多くの時間を割かなければ育たない。小学校・中学校はその時期にあたるが、そこで必要な繰り返しの訓練が不十分なまま終わっているのではないか』

 これは、近年取り沙汰されている子どもの学力低下の原因を指摘したものでしょう。小学校課程は、言うまでもなく「まねて型を学びとる、“守”の段階」にあります。まねて体に染みこませることが必要なのに、今の公教育ではそれが十分に行われていないということを言っているのだと思います。

 このところ、学校では「基礎・基本の習得」を重要視し、子どもを鍛える方向に向かっているようです。新しい指導要領は、そういう意図をかなり明確に示しています。ただし、学習が質・量ともに不足しているという問題は、週5日制、教科書や授業時数などの枠組みが大きく変わらない限り、抜本的解決には至らないと思います。また、基礎・基本の習得が強制的かつ強引に行われたのでは、新たな問題が生じる懸念が生まれます。

 小学生、特に低~中学年の子どもは、計算処理などをはやく快適にやれるようになることがうれしく、繰り返してやることを嫌がりません。子どもがそういう段階にあることをもっと上手に活かすべきではないでしょうか。

 たとえば、計算を速く快適にできることや、漢字をすらすらたくさん書けることにプライドをもたせるよう、子どもの取り組みに関心をもち、進歩を大いに誉め称えてやることが必要だと思います。前述のように、命令して無理にやらせるのは好ましくありません。また、他人と比べてほめるのもよくありません。子どものがんばりを見守り、進歩していることを喜んでやることで、子どもの向上心に火をつけるのです。きっと、お子さんは元気づき、夢中になって取り組み始めることでしょう。こうした学習を経て、子どもは「守」を固め、徐々に「破」への移行準備をしていくのです。

 なお、「まねるべき基礎が細分化されている」という前述の指摘は、かねてより日本の初等教育の欠点として取り上げられているようです。欧米の初等教育では、「母国語教育」に全体の授業時間の半分もしくはそれ以上が充てられているという話です。この問題は、私たちがとやかく言える次元のことではありませんが、いずれ機会があれば私見を述べさせていただきます。

 

 

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