子どもの潜在的な可能性を見る
2月 20th, 2009
これからご紹介する話は、筆者がファシリテーターの資格を取得した国際的教育運動の創始者の一人である、リンダ・カヴェリン・ポポフ氏の著作からの引用です。
マグダレン・カーニー博士は、教育者としての道を歩み始めたばかりのときに、年度の半ばにデトロイトのスラム街にある学校のクラスの担任をするという経験をしたことがありました。校長先生が教えてくれたことといえば、前任者が突然辞めたということ、このクラスは「特別な生徒」のクラスであるということだけでした。
教室に入ると、大混乱もいいところで、紙クズが舞い飛び、生徒は足を机の上に投げ出し、その騒音たるや耳をつんざくばかりでした。教卓のうえの出席簿を開けてみました。生徒の名前を見ると、その横に140から160までの数字が記入されていました。彼女は内心で思いました。“元気がよいのも無理はないわ。この子供たちはすごい知能指数をもっているのだから” 。彼女はにっこりと微笑んでクラスの秩序を取り戻しました。
最初、生徒は宿題をきちんと提出できませんでした。提出されたものは大急ぎでいい加減にやったものだけでした。彼女は彼らが潜在的にもっている素晴らしい能力について話し始めました。彼らに最高の努力を期待しているということを話しました。彼らには与えられた特別な能力を活用する責任があることをつねに思い出させる会話を続けました。
変化が起こり始めました。子どもたちは誇りをもってしっかりと座るようになり、一生懸命に勉強するようになりました。彼らの作業は創造的で厳密でユニークでした。
ある日、校長先生が教室を通りかかり覗き込みました。生徒たちが全身の神経を集中して小論文を書いていました。後で校長先生はマグダレン先生を校長室に呼んで聞きました。
「あの生徒たちに何をしたのですか? 彼らの成績は普通のレベルをはるかに超えているじゃないですか?」
「当然ですよ。彼らには特別な才能があるのですからね」
「特別な才能? 彼らは特別なニーズのある生徒たちですよ。問題行動が多く知能が遅れている連中ですよ」
「でも、出席簿に知能指数が高いことが書いてあるじゃないですか」
「あれは知能指数じゃなくてロッカーの番号です!」
特別な生徒の、「特別」の意味を取り違え、「才能豊かな生徒」だと信じて指導した結果、すばらしい成果を引き出したという話です。子どもの潜在的な可能性を信じるということが、いかに大切かを教えてくれますね。考え方としては、前回ご紹介した「ピグマリオン効果」と相通じるものであろうと思います。
「この話はできすぎている」「ウソに違いない」と思われる方もおありでしょう。真偽のほどはともかく、子どもの側に立って考えてみると、大切なことに行き当たります。それは、「自分たちの能力や可能性を信じ、一生懸命になって指導してくれる先生に巡り会えた」ということの幸せです。この先生は、消えかけていた自信と自己期待の気持ちに、再び火をともしてくれたのです。
翻って、みなさんのご家庭における親子関係に目を向けてみましょう。「うちの子は、どうせやらないだろう」「本当にどうしようもないんだから」といった目でわが子を見ておられませんか?子どもというものは、そういう親の気持ちを必ず見破ります。そして、やがて「自分は能力がないから、親に期待されていないんだ」「どうせ、自分はダメな子なんだ」と、自分を卑下するようになってしまいます。
一方、親が自分に対して「努力すれば、必ずできるよ」という眼差しで見守ってくれることほど、子どもにとってうれしいことはありません。そして、その喜びは「がんばってみよう!」という意気込みや勇気に転化していきます。小学生までの子どもは、親の姿勢をそのままに受け取り、どのようにでも変わっていくのです。このような時期の意味を、親はもっと理解するとともに活かしたいものです。
家庭学習研究社には、たくさんの優秀なお子さんが通っています。そして、その優秀なお子さんの背後には必ずといってよいほど、子どものがんばりを信じて優しく見守っておられるおとうさんおかあさんがおられます。
もしも、現在のわが子の勉強ぶりや生活態度に不満が募っているおとうさんおかあさんがおられたなら、わが子のふがいなさを嘆く前に、子どもの小さながんばりを信じることから状況の巻き直しを図ってはいかがでしょうか。「どうしてがんばれないのか」という嘆きの言葉と決別し、「やればできるよ」と、子どもを信じて励ますのです。小学生であれば、遅きに失するということなどありません。