「エピソード的理解」と「意味的理解」

2月 27th, 2009

 だいぶ前になりますが、子どもの言葉と思考の発達が、中学入試において成否を分ける重要なポイントであることについてお伝えしました。これは、子どもの学力形成において非常に大切なことであり、親がそれについて知っておくことは大いに役に立つことですので、この話題についてまた書いてみたいと思います。

 お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古氏は、言語学者として有名ですが、幼児教育の権威でもあります。その外山氏の著作に、言葉の理解のしかたに関する興味深い記述がありますので、ご紹介しましょう(スペースの都合で、必要部分をかいつまんでお伝えします)。

 「“弘法も筆の誤り”という諺(ことわざ)がありますが、いつ、そういうことが起こったのか、歴史的事実を知りたいと思っています。“サルも木から落ちる”という諺では、本当にサルが木から落ちるか、どうか、実地に調べたいと考えています。こういう点について取材したいのですが、いかがでしょうか」

 これは、外山氏にかかってきた、女性週刊誌のライターからの電話の内容です。外山氏は、諺を史実であるかのように受け止める、このライターの常識のなさにあきれ、即座に断ったそうです。このライターのように、話を文字通りに受け止めることを「エピソード的理解」と言います。一方、話の意味する真意を受け止めることを「意味的理解」と言います。諺やたとえは、「意味的理解」をしてこそ、その役割を全うします。「弘法大師は、いつ書き損ないをしたのか」「ほんとうにサルは木から落ちるのか」という疑問をもつのは、それこそナンセンスというしかありません。

 幼い子どもは、話をすべて事実として受け止め、物語で起こるできごとを不思議がったり、「変だ」と言ったりすることがあります。それは、「エピソード的理解」の世界を抜けきれず、「意味的理解」の域に到達していないからです(お伽話は、ウソの話を空想して楽しみます。その意味で、「お伽話は、抽象的思考の基礎をつくる重要な役割を果たすのだ」と、外山氏は著書で述べていました)。事例を通して、そこで伝えようとしている意図をつかむ。これも中学入試で求められることであり、子どもたちが日々の言語生活を通じて、「話の真意」をくみ取れるように成長しているかどうかが勝負の分かれ目になります。

 以前書きましたが、5年生になっても「宇宙人が地球に来襲した」という架空の話を、ウソの話として楽しむことができず、「ほんとうにあったことか」と不安げな表情を浮かべる子どもがいます。こういう子どもは、論説文などの読解においても、「事実を提示された部分」と「筆者の主張の部分」を区別して読むことができず、文章の意図を読み取れないで苦労することになりがちです。

 では、子どもの読み取りと思考のグレードをあげ、「意味的理解」の域へと上手に導いていく方法はあるのでしょうか。これに関しては、筆者にも即効性のあるご提案やアドバイスはできません。しかし、少なくとも言えるのは、中学受験をめざしておられるご家庭においては、あきらめずに何らかの働きかけをお子さんにしていくことが必要だと思います。このブログを続けていくなかで、気づく限りにおいて話題に取り上げて書いてみたいと考えています。

 子どもは、自然と成長しているように見えますが、こと言葉と思考については、理由なくして変化発展は期待できません。日常の生活体験のなかで、様々な事象について興味をもち、思考を巡らすことも必要でしょう。また、人とのやりとりを通じて、相手の真意を汲み取ったり、自分の思いを伝えたりすることも大切です。無論、読書という仮の体験は、3~4年生からはすばらしい語彙獲得の場となります。語彙獲得は、当然思考のステージをレベルアップさせていきますから、「読書なくして読みの理解力の発展は期待できない」と言えるほどです。

 それからもう一つ。家庭での親子の会話。これは、子どもの言葉を鍛え、思考の発達を促すうえで、欠かせないものです。この点においては、おかあさんが重要な鍵を握る存在と言えるでしょう。いずれ詳しく書きますが、毎日お子さんといろいろな話題に花を咲かせるような時間を是非もってあげてください。1日20~30分、毎日会話を続けるだけで、お子さんは随分いろいろな知識や考え方を吸収していきますし、おかあさんの話に耳を傾けることで、話し相手の伝えようとする真意を理解する力が養われていきます。それは、そのまま読み取りの能力向上につながるものです。

Posted in 中学受験, 子どもの発達

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