「授業」に託す私たちの思いとは

4月 10th, 2009

 「学習意欲」について研究している大学の先生の書物に、ちょっと考えさせられることが書いてありました。ご紹介してみましょう。

 その先生の研究室に所属する学生(大学院生)の多くは、中学受験の経験者でした。あるとき、「中学受験の勉強の思い出は?」と先生が彼らに尋ねたところ、概ね「暗記に明け暮れた」「一生懸命に何かを詰め込んでいった」というようなことを述べたそうです。ただし、もはやぼんやりとした記憶しか残っておらず、「おぼろな残像として残っている」といった程度のことだったのかもしれません。

 しかしながら、筆者はいささかショックと違和感を禁じ得ませんでした。小学生時代に「暗記学習」に明け暮れた学生が、「学習意欲」の研究をしているという皮肉に、笑えないものを感じたからです。また、彼らの中学受験の思い出は、とかく喧伝される中学受験のネガティブな側面そのものです。そういう経験をした学生が、果たして立派な研究者になれるのだろうかという疑問が湧いてきます。

 もしも、受験をめざした学習がその人間に手応えを与えてくれたり、喜びを感じさせてくれたりしたのなら、全く違った思い出が残っているはずです。彼らにとって、中学受験生活は進学のための「必要悪」でしかなかったのかと思うと、残念至極な思いに駆られてしまいます。

当社の経営者は、かつて次のようなことをしきりに述べていました。

 勉強で得た知識自体は、時間の経過ともに風化し記憶から消し去られる。しかし、私たちがどういう学力観に立ち、どういう授業をしたかは、子どもたちの心にいつまでも残る。もし、私たちが授業で勉強というものの面白さや奥深さに気づかせるような働きかけをしたなら、子どもは学んだ内容の細かなことは忘れても、私たちの授業を通じて培った『学力観』は脳の奥深くに残されるだろう。そして、この学力観が以後の学問への取り組みを決定づけることになるのだ。また、学問への造詣は、このような考えに立った授業を通じてこそ育つのではないか。

 これは、非常に大切なことを示唆している言葉だと思います。受験する子どもは、「合格」をめざして学ぶのは当然ですが、指導にあたる者や親は「どういう勉強を経て合格に到達すべきか」という視点を常にもち、勉強の軸がぶれないよう配慮する必要があります。受験への助走路は2~3年ですが、その期間の勉強の取り組みは後々までも影響してきます。

 たとえば、先ほどの学生たちが「中学受験の勉強は楽しかった」「勉強を好きになったのは、中学受験の勉強のおかげだ」などという印象をもっていたならどうでしょう。このほうが、研究者として大成する期待がもてるように思います。これをお読みになった方は、どう思われるでしょうか。

Posted in 中学受験, 家庭学習研究社の理念

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