言葉遊びを家族で楽しむ

12月 21st, 2009

 最近、阿刀田高氏の「ことば遊びの楽しみ」という本を読みました。日本人が言葉遊びを大変好む民族であることを指摘し、日本語の言葉遊びの楽しさについて、さまざまな事例を紹介しながら自身の考えを綴ったもので、すぐさま惹きつけられ、あっという間に読了しました。

 日本語は、英語などの外国語と比べて言葉を構成する音が少なく、母音を含めてかな文字が七十三ほどです。そのなかには、イとヰ、エとヱ、オとヲ、ジとヂ、ズとヅなど同じ音と考えてよいものもあり、実際にはさらに言葉を構成する音の数は少ないと言われます。ですから、同じ音をもちながら意味の異なる言葉がたくさんあります。そうした言葉に着目し、うまく音を掛け合わせ、意味の交錯する面白さを楽しむ遊びが古くから日本人に親しまれてきました。

 そういえば、中学入試において、国語では同音異義語や同訓異字を書かせる問題がよく出されますよね。それだけ同じ音をもちながら異なる意味をもつ言葉がたくさんあり、それを識別できるかどうかも国語力の一要素としてみなされているのでしょう。たとえば、つとめる(努める、務める、勤める)、かいほう(開放、解放、快方、会報)など、中学入試問題をチェックしているときに何度も目にしたことがあります。

 こういう紛らわしい言葉を見つけては、親子でクイズのように問題を出し合って楽しむのもよいかもしれませんね。4~5年生になると、こういう遊びを面白がって大いに楽しむようになります。その結果、いつの間にか言葉の力が増していたなどということも大いにあるのではないでしょうか。

 前述の阿刀田氏の著作には、氏が小学生の頃に家族で言葉遊びに興じた思い出が語られています。その経験が、現在の作家としての阿刀田氏を育てたと言っても過言ではないかもしれません。阿刀田氏の子どものころの言葉遊びに関する著述の部分をちょっとご紹介してみましょう。

 同じころ(小学校3、4年生)、大好きな遊びに“いつ、だれが、どこで”があった。やり方はいくつかあったが、一例を示せば、小さい紙片をたくさん用意する。何人かが集まって、
「まず“いつ”だぞ」
とリーダー役が発する。そこで“時”に関わること・・・・・・つまり“台風のとき”“クリスマスの夜に”“お葬式のとき”などなどと勝手に考えて記す。それを集めたところで、次に、
「今度は“だれが”だ」
“お兄ちゃんが”“双葉山が”“(おそれ多くも)天皇陛下が”などなどと書く。これも集めて、次に、
「じゃあ“どこかで”」
“エベレストのてっぺんで”“お便所で”“お墓の前で”・・・・・・。
「次、“だれと”」
パートナーとして、だれかを、たとえば“清水の次郎長と”“白雪姫と”“お母さんと”と記す。
「最後は“なにをした”を書いて」
“にらめっこをした”“喧嘩をした”“おならをした”と思いつくままに記す。
もうおわかりだろう。五つの集合を作り、それぞれの集合から一枚ずつを無作為に抜き出して、“いつ、だれが、どこで、だれと、なにをした”という一文を作る。

“元旦の朝、お母さんが、お風呂場で、キングコングと、ウンコをした”
“大水のとき、お兄ちゃんが、トンネルの中で、浦島太郎と、かけっこをした”
“空襲のとき、校長先生が、川の中で、看護婦さんと、おしっこをした”

 とんでもない文章ができあがる。わけもなくおかしい。遊び方がわかって来ると、受けねらいを書く人がいるから、ますますおかしくなる。笑って、笑って、苦しくなることがあった。

 ずっと後になって、文章作法としての5W1Hを知って(つまり文章を書くとき、when,who,where,what,why,howという疑問に答えられるよう綴ること)――あの遊びは、これと関係があるなあ――と思わないでもなかった。

 どの遊びもめっぽう楽しかった。これは私がことば遊びに関心があったこともあろうけれども、一家の団欒とか親しい仲間の存在とかがあってのこと。テレビ、パソコン、ケータイの時代とはおおいにちがっていただろう。

 子どものころ、家族で言葉遊びに興じた思い出は、いつまでも心に残ります。言葉遊びを通じて、子どもは思考のステージを上げていくこともできるでしょう。おたくでもやってみませんか?

参考:「ことば遊びのたのしみ」 阿刀田高 岩波新書 700円+税 

Posted in アドバイス, 家庭での教育

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