学習とは文武両道である
1月 28th, 2010
今回のタイトルに「???」と思われたかもしれませんね。このタイトルは、ある有名な学者の著作にあった言葉を引用したものです。この言葉自体がとても面白いと思いました。また、この言葉は学習とはどういうものか、非常に核心をついています。この学者の著作の一部をご紹介してみましょう。
学習とは文武両道である。両道とは二またをかけているということで、それぞれべつべつにという意味ではない。脳でいうなら、知覚と運動である。知覚から情報が入り、運動として出て行く。出て行くが、運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ、運動から知覚へという、ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意しモデル化すること、これが学習である。
たとえば散歩をする。一歩歩くごとに視界が変化する。その変化に合わせて、次の一歩を踏み出す。幼児はこうして自己の動きと知覚の変化、その関連を学習する。成人はこうした変化をあまりにも当然と思っているために、それをまだ学んでいない状態、あるいはそれができない状態を想像することがない。
(中略)いったんそうしたループができてくれば、それはモデル化されるから、ゆえに応用が利く。つまり脳内に運動制御のモデルが発生するのである。現実には身体運動は複雑であり、極めて多くのモデルを用意する必要がある。しかし、何事もまずはじめなければ、話にならない。赤ん坊はそれをほとんど白紙の状態からはじめるのである。
このような意味で、言語は典型的なループである。複雑な筋運動で構成された発声が、つぎに自分の聴覚で捉えられる。その聞こえ方によって、ふたたび筋運動を調整する。その意味では言語であれ歩行であれ、脳における大ざっぱな原理は同じである。
「学習は文武両道である」という言葉の意味が、これでおわかりいただけたと思います。この学者が述べていたことですが、たとえば寝たままの乳幼児にビデオを見せておき、何らかの学習効果をねらうことが早期教育の一環として行われているようです。しかしながら、これが学習かというと、そうではないそうです。情報は映像と音声で入力されるでしょうが、出力されることがないために一方通行でしかありません。つまりループが回転していくことはありません。
このブログは、中学受験塾が情報提供をするための場です。そこで、前述の“ループ”という観点から、中学受験の学習について考えてみましょう。
まず、受験生が学んだことをただ飲み込んで覚えるだけでは、学習したことになりませんね。ループが生じないからです。課題に取り組むことによって、何らかの理屈や考えを理解したとします。それを他の課題への取り組みに活かそうとすれば、より高い次元の課題への対応力を磨いていくことができるでしょう。このようなループが生じてこそ、子どもはほんとうの意味で学習したことになります。
受験合格のために、とにかく知識や理屈を詰め込む。そういう対策に血道をあげるケースも少なくないようです。しかし、それだけでは知覚した段階、入力を終えた段階で留まってしまいます。知覚し、入力した情報をもとに、出力をかける。そうして、その結果を見届けて再び入力する。このようなループが生まれてこそ、学習の名に値するわけです。
中学受験生の子どもたちにとって必要なこと。それは、入力する情報のもつ意味、しくみを理解しながら、それを他の課題に活かしていくことです。次の課題に直面したとき、「これは先ほどやったこととどう関連しているのか、どの部分を活かせばいいのか」など、さまざまな角度から検証し、既知の知識や考え方を次へと活かしていく。そういう取り組みを意識すれば、授業で先生の説明をしっかり聴いておこうという意識が高まるでしょう。また、思考のプロセスを具体的に残し、それをまた次なる思考に活かすために、ノートをきちんとまとめることの必要性にも気づくようになるでしょう。
テストは、既習の事項をどれだけ身につけているかを試すものです。学んだことを「身につけた」レベルにもっていくには、入力と出力を繰り返すループが必要であり、それによって学習の対象に存在する共通性に気づいたり、派生して考え得る事柄に気づいたりできるようになるのだと言えるでしょう。
以上のことが、お子さんのこれからの学習活動に多少なりとも役立てば幸いです。