国語力が人生の鍵を握る?

12月 9th, 2013

 ある日、手元にある本を何となく手にとっていると、「人生の成功率は国語力に比例する」といったようなくだりが目に入ってきました。

 これは、だいぶ前にアメリカで行われた大がかりな調査の結果を紹介するものでした。ちょっとご紹介してみましょう。なにしろ、35万人以上に及ぶ大変な数の人たちにテストを実施した結果の結論だというのです。さすがアメリカはやることのスケールが違いますね。

1.多くの言葉の意味を正確に知っていることが、他のどんな特性よりも社会生活における成功の原因である。
2.それぞれの職場での地位と上下と収入の多少の割合は、ほとんどその人の国語力に正比例している。
3.国語力と学校の成績、すなわち、学力とはほとんど正比例する。

 筆者は、小学校、中学校、高校と、国語がいちばん得意でした。しかしながら、この結論に当てはまるような人生を送っているとは言い難い現状です。「ほんとかな」などと考えていて、ふと気づいたことがあります。「ここで言う国語力の尺度は、日本人の多くが連想する“読解力”重視のテストによるものとは、だいぶ異なるのではないか」ということです。

 1209_aたとえば、アメリカでは小学校入学前から小学4年生にかけて、“ショー・アンド・テル”と言われる話しかたの教育が行われています。幼稚園でこうした教育の時間が週1回あり、「自分の大好きなものを家からもってきて、それについてみんなの前で説明する」といったようなことを子どもたちがしているそうです。これは、“プレゼンテーション能力”の育成を意図したものでしょう。こうした能力も、この国語力に含まれているのかもしれません。

 そういえば、以前イタリア語の同時通訳者のかたに、メールで学力をつけるための要件としてどんなことがあるかお尋ねする機会がありました。そのとき、音読・朗読の重要性を指摘され、「イタリアでは、試験も口頭で行われます」と述べておられたことを思い出します。これも、話す力(プレゼン力)、聞く力が、学力(知的能力)と深いつながりをもつという考えに基づく指摘だったのでしょう。

 1209_bご存知のように、国語力は“読む”“書く”“聞く”“話す”という4つの要素が軸になっています。日本の教育においては、このうちの“読む”に大きな比重が置かれています。近年は、“プレゼン力”を育てる教育を謳う学校が増えていますが、このような力も含め、上記の4つの要素をバランスよく携えることが今日の国際化社会では必須になるのではないかと思います。

 とまあ、ここまで書いたようなことを頭に思い描いたものの、話が発展しそうにないので書くのをやめてしまいました。ところが、そのあと読んだ本に、読むことに傾倒するのを戒める著述があったので、それにやや触発され、続きを書こうとパソコンのキー・ボードを叩くことになりました。

 その本には、次のようなことが書かれていました。お書きになったのは有名な言語学者です。

 聡明とは、耳がよくきこえ目がよく見えるという意から判断力が優れていることをあらわすことばだが、目より耳をさきにしているのがおもしろい。ふつう人が頭のよいのは目がよくものを読み解くからのように考えている。耳などたいしたことはないとぼんやり考える。学問は目でするものと決めてしまって、耳で得た知識を耳学問などとおとしめる。賢者は明によってすぐれているときめてしまっているけれども、聡明は耳の賢さを目の賢さよりも上にしているのである。古人の直観である。

 この学者は、「大昔より日本では中国大陸から優れた文物を採り入れて文化を発達させてきたが、わけても中国の典籍(書物)を読むことが最も重要な勉強だった」と述べておられます。それはみなさんもよく知っておられることと思います。そうした経緯から、長らく日本では読むことが勉強の中心となり、会話の力が省みられないまま今日に至ったようです。「したがって、ことばの基本は音声である、などということは誰も考えなかったようで、鎖国が解けて欧米文化が導入されるようになった明治以降も、ことばは音声のことばで、文字はそれを記録する手段であるという言語学の“いろは”をはっきりと知る人はほとんどいなかった」というのです。

 このような流れもあり、かつて小学校教員養成のために設立された師範学校においても、“読み”“書き”は重視されたものの、“会話”はほとんど目を向けられなかったようです。第二次大戦後、アメリカのGHQがこうした状況に驚き、前述の4つの要素を並行して伸ばす国語教育をするように指示したそうです。しかし、すぐに元の木阿弥に戻ってしまったのです。以上は、前述の言語学者の著述に基づくものです。

 読む力重視の国語教育は今も変わりません。それでいて、日本の子どもの読解力の低下が近年しきりに喧伝されています。特に2003年にOECDが行った国際学力到達度調査(PISA)で、日本の子どもの読解力が14位に落ち込んだときには、「PISAショック」と騒がれたのは記憶に新しいところです。先日、2012年の同じ調査で、日本の子どもの読解力が前回(2009年実施)より順位を一つあげ、65カ国(地域)中の4位になったと新聞で報道されていましたが、学習塾の指導現場から見ると、子どもの読解力が回復しているという手応えはあまりありません。前述のような総合的な意味での国語力という点においてはどうなのかも知りたいところですね。

 さて、ここからが筆者からこの記事をお読みのおかあさんがたにお伝えしたいことです。お子さんが小学校に入学されるまでは、おかあさんがお子さんのことばの先生でした。そのことばは、主に“話しことば”です。日々の生活における会話を通して、お子さんは新しい語彙の大半をおかあさんから身につけていたのですね。また、正しいことば遣いや理路整然とした話しかた、相手の目を見て最後まで聞き届ける姿勢も学んだことでしょう。

 しかし、小学校に上がり、文字(書きことば)を正式に習い始めると、いつの間にかお子さんとの会話の時間が減り、お子さんがおかあさんとの会話を通して“話す力”“聞く力”を磨いていく経験が少なくなってしまったのではないでしょうか。

 1209_c子どもの知的能力の源泉は、家庭でのおかあさんとの会話にあります。“書きことば”の学習が始まってからも、家庭での会話の重要性はいささかも衰えるものではありません。話す力、聞く力を磨くことと、“読む力”“書く力”を伸ばすことの、両方が噛み合ってこそ豊かな学力、知力が涵養されるのです。

 親子一緒の会話の重要性は、これまで何度となくお伝えしました。お子さんが、中学受験をめざして勉強されている家庭においても、この会話の時間が削られることがあってはいけないと思います。“話す力”“聞く力”は、目先のテスト結果には繋がりませんが、お子さんがたの成長とともにその重要性を増していきます。冒頭でご紹介したアメリカの調査結果は、そういった意味で大いに参考になるのではないでしょうか。

Posted in 子どもの発達, 子育てについて, 家庭での教育

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