心に浸透する言葉、浸透しない言葉

1月 23rd, 2014

 かつて同時通訳・作家として活躍されたY氏(故人)の著作を読んでいたら、「同じように音声として発せられた言葉なのに、強い印象とともに心に深く浸透する発言と、理路整然としているにもかかわらずほとんど印象に残らない発言とがある」という件(くだり)がありました。

 人の心に浸透する言葉、人の心に届く言葉を話すことは、社会で生きていくうえで求められる能力のうちで、最も大切なものの一つでしょう。子育てにあたっておられる保護者の方々にとっても、家庭教育の一環として「会話力のある子どもを育てる」ということは、わが子の将来に多大なプラスの影響をもたらすと思います。そこで、この問題についてともに考えてみたいと思います。

 テレビのニュース番組で、大臣や大会社の会長や社長などの偉い人たちが、頭を下げて謝罪しているシーンを見たことがおありだろうと思います。こういうシーンにおいて語られた言葉で、心に深く刻まれているものがあるでしょうか。おそらくほとんどのかたは、「紋切り型でどれも同じ」「形式的で空々しい」「棒読みをしているだけで、全然記憶に残らない」といったような反応を示されるのではないでしょうか。

 こうした点を指摘したうえで、この本の著者は希に強く記憶に焼きついている謝罪の言葉があることにもふれておられました。それは次のような言葉です。

①悪いのは私です。社員ではありません。
②もう何日も寝てないんだ。

 だいぶ昔のエピソードですので、この言葉に思い当たる節のあるかたは少ないかもしれません。①は、○○證券の社長さんが、会社の倒産にあたってテレビの前で泣きじゃくりながら話された言葉です。また②は、食中毒の事件を起こした○○乳業の社長さんが、繰り返される報道関係者の質問に閉口して、思わず口走ってしまった言葉です(内容的には謝罪の言葉ではありませんが)。

 なぜこれらの言葉が記憶に残るのでしょう。この本の著者は、「要するに、聞く者の意識に達する浸透力をもつ言葉は、一個人から、つまり一人の人間から発せられた言葉である」と述べておられました。

 多くのかたがご存知のように、公の場で代表者が発する言葉のほとんどは、官僚が書いたり、部下が書いたり、広報担当者が書いたりした文書を読み上げたものです。そのうえ、謝罪をしている人の大半は無表情で抑揚のない話しかたをします(「私が悪いわけではない」という思いがあるからでしょうか)。さらには、うつむいたままで視聴者のほうを見ていません(文書を読むのだから当然そうなります)。ですから、聞いている人は「立場上しかたなく、嫌々言っているのだろう」と感じ取ってしまいます。

 このように、同じように音声で発せられた言葉ですが、記憶に残る言葉とすぐに記憶のかなたに消え去ってしまう言葉があります。この本の著者は、人が発した言葉と、それを他者が受け止める際のやりとりを、次のように説明しておられます(少し調整しています)。

 個人が発する言葉というものは、その内容の是非正邪に関係なく、次のようなプロセスを経て生成するものと思われる。

まず話し手には、何か言いたい感情や考えが芽生え(概念①)、
それを表現するにふさわしい語や言い回しを探し当て(信号化)、
発声器官に乗せる(表現)。
この音声は聞き手によって聞き取られ(認知)、
意味が解読され(信号解読)、
話し手の言いたいことはおそらくこうだろう(概念②)と推測する。

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 概念①が概念②に近ければ近いほど、コミュニケーションは成立したということになる。話し手における言葉の生成過程は、聞き手におけるその解読過程と驚くべき対称形を成している。

(中 略) 謝罪する責任者の言葉が心に浸透しないのは、たとえ部下が作成した謝罪文でも、一語一語、再び己の感情と思考を通過させて、自分の言葉として発する(よき俳優は、このようにして台詞を生きた人間の言葉に変える)なら、受け取る側に与える印象は全く違ったものになるだろう。要するに、彼等が発する言葉は、一人前の言葉がたどる生成過程を経ていないのだ。そして、それはものの見事に言葉の聞き手における解読過程に反映される。何しろ、両者は対称関係にある。わかりやすく言うと、心から発せられない言葉は心に届かないということなのだが。

 筆者には、引用文の最後に述べられているゴシックにした部分が強く印象に残りました。一人前の言葉とは、「自分の感情や思考を通過させたうえで、自分の言葉として発せられたものなのだ」ということなのですね。そういうプロセスを経て発せられた言葉だからこそ、聞く側も話者の心を汲み取った理解が可能になるのでしょう。

 「わが子には、コミュニケーション力に長けた人間になって欲しい」と願うおとうさんおかあさんはたくさんおられると思います。その願いを実現させるためには、わが子が小学生のうちに「話すこと」「聞くこと」の土台をしっかりとさせなければなりません。

20140123a しかしながら、親子の会話というととかく親の側が言いたいことを一方的に伝えるだけで、子どもの話に耳を傾けるということが疎かになりがちです。子どもは、伝えるべきことを「自分の感情と思考を通過させて自分の言葉として発する」ということが上手にできません。その手本を示すのが親であり、練習をする子どもが話者を務めるときには、自分の気持ちをしっかりと言葉にして伝えられるようになるまで、辛抱強く相手をしてやる必要があります。

 そういうプロセスはまどろっこしいかもしれませんが、とかく親は言いたいことをさっさと伝え、子どもの言うことは聞いてやらないといった状況になりがちです。大人は忙しいからそうなるのでしょう。

 これは以前書いたことですが、親が上手な聞き役になってやらない限り、子どもは自分の思いを上手に発信できる話者にはなれませんし、相手の言っていることをしっかりと受け止める姿勢も身につけることはできないと思います。何しろ、子どもは日頃の会話を通じて「人の話は聞かなくてよいのだ」と親に教えられているようなものですから。

 保護者のかたには、「話す側の言葉の生成過程と、聞く側の解読過程は対称形を成している」ということを念頭に置き、日常の会話を通してわが子がしっかりとしたコミュニケーションのできる人間に成長できるような家庭教育の実践を心がけていただきたいと存じます。

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