英語を子どもに学ばせるにあたって
2月 10th, 2014
企業のグローバル化が進むなか、国際共通語としての英語の重要性がますます認識されつつあります。世界各地にブランチをもつグローバル化した日本企業や、日本で外国人を多数採用する企業などでは、会議も英語で行われているということを耳にします。大規模なメーカーでは、技術系の論文は全て英語で書くことが求められるとか。
テレビやインターネットの画面には、これでもかというほど「英語が堪能になる」というふれこみの学習ソフトの宣伝が溢れています。筆者など、「聞き流すだけで英語が身につくなんてウソに決まっている」と疑ってしまいます。ともあれ、「もうじき、日本に住んでいるのに英語ができなければやっていけない時代になるのではないか」という不安すら覚える昨今です。
日本人の英語下手はつとに有名ですが、その理由として「英語教育が不適切である」という人がたくさんいます。しかし、どう不適切なのかについては諸説あります。以前は、「文法や構文、読解中心の教育が使える英語が身につかない原因になっている」と言われていましたが、学校教育が会話型英語にシフトすると、今度は「文法や構文を無視した、小手先のコンビニ英語を子どもに教えるから身につかないのだ(すぐに忘れるだけ)」などと言われています。そんな具合で、的を射た見解がいまだに定まりません。
そもそも、「英語、英語と、これだけかまびすしい国民は、日本人ぐらいのものではないか」と思うのですが、広島という地方に暮らす筆者や周辺の人たちを見回すだけでも、英語の存在や必要性を意識せずにはいられない状況が訪れています。
たとえば、外国人の知己とメールをやりとりするたびに「アメリカに来なさい」と誘われます(筆者が後込みするので、逆に先方が広島に来てくれましたが)。広島で一緒にスポーツを楽しむ友人のなかには、毎年会議でアメリカに行く者もいるし、子どもがアメリカに留学したりアメリカで働いたりする家庭もあります。かつて弊社で学んだ卒業生ともなると、かなりの数にのぼる人たちが仕事で普通に外国暮らしをしたり、日本と外国を行き来したりしています。
街の看板や雑誌の誌面、テレビやインターネットの画面などには、いたるところにカタカナ言葉が氾濫していますし、Jポップと呼ばれる音楽の歌詞の何割かは英語のフレーズです。
いつだったか、「日本語はウワバミのような言語である」という指摘が書物にありました。かつて漢語が日本に渡来すると片っ端から日本語化され、江戸時代にはオランダ語、明治以降は英語がすさまじい勢いで日本語の中に入り込んでいます。英語の名詞の末尾に「する」をつければ、大概は日本語の動詞に早変わり。そうやって、本来外国の言葉だったものを無制限に日本語化してしまいます。外国語に精通しているある文化人は、「他国の言語を、かくも無防備に自国語に取り込む国は他にない」と述べていました。そういった民族性が、グローバル社会の到来によってますます「英語」に走らせているのかもしれません。
そう言えば、明治時代の初代文部大臣だった森有礼は「日本でも英語を公用語に」と提案したし、戦前の社会思想家の北一輝は「エスペラント語を公用語にしよう」と言っていますし、作家の志賀直哉は「日本語よりもはるかにフランス語のほうが美しいのだから、日本でもフランス語を公用語にしたらどうか」と言ったと伝えられています。なんとも無邪気というか、恐ろしいほどの母国語軽視の考えに驚いてしまいます。
少し本題から外れてしまったようです。ともかくも、これから社会に出て働く世代にとって、もはや英語を学ぶ必要性が増すことはあっても減ることはないでしょう。では、少しでも早くから子どもに英語を教え、英語を話せるようにしておくべきなのでしょうか。また、英語の読み書きも早めに習得させておくべきなのでしょうか。それにあたって、効果的な方法はあるのでしょうか。早くから英語を学ばせることに何も問題はないのでしょうか。
これに関して、外国語に堪能なかたの参考になる著述がありました。ちょっと紹介してみましょう。
私どもにとっての母語、つまり生まれてこのかた最初に身につけた言語、心情を吐露しモノを考えるときに意識的無意識的に駆使する、支配的で基本的な言語というのは日本語である。第二言語、すなわち最初に身につけた言語の次に身につける言語、多くの場合外国語は、この第一言語よりも決して上手くはならない。単刀直入に申すならば、日本語が下手な人は、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところは同じなのだろう。
これに続けて、ある有名な女性人気アナウンサーが結婚発表の記者会見の際、「子どもを国際人にしたいから、家では一切日本語をしゃべらないことにします。家では全て英語で話すようにします」と述べた話を紹介し、このアナウンサーの考えについて次のようにコメントしておられました。
「国際」という言葉は、日本語でも国と国の間という意味。「国際」を意味するインターナショナルという英語だって、インターは「間(あいだ)」を、ナショナルは民族あるいは国を意味する。自分の国をもたないで、自分の言語をもたないで、国際などあり得るのか。
そもそも日本語ができるからこそ英語は付加価値になり得るのであって、英語だけしか出来ない人なら、アメリカにもイギリスにもオーストラリアにも、ちょうど日本に日本語しか出来ない人がウヨウヨいるように、掃いて捨てるほどいる。さらには、どんなに英語が上手くとも、自国を知らず、自国語を知らない人間は、それこそ国際的に見て、尊敬の対象にはならない。
(中略)同じ目論見で、日本に住みながら子どもを英語のみで授業をするインターナショナル・スクールに入れ、家庭内でのコミュニケーションも英語に限定している人たちが私の周囲にも後を絶たない。そして決まって、子どもたちが成人する頃になって、重大な過ちをおかしていたことに気づく。(中略)自国の文化のアイデンティティを形成し得なかった若い魂が、どれほど不安定で不幸な自我意識に苛まれるかを目の当たりにしてからなのである。
第二言語は、第一言語を土台に形成されると言います。母国語である日本語を正しく美しく使えない人間になってしまうと、外国語が日本語よりも上手になるなどということは絶対にないということなのですね。
英語を学ぶことはもはや「必要か、必要でないか」の論議を待つまでもなく、必須の時代が来ています。だからこそ、上手な英語の遣い手になるために、小学生のうちはしっかりとした日本語を習得しておかなければならないのですね。小学校での英語教育が強化される方向にありますが、確かな日本語の教育をその前提として行わなければ不幸な事態に陥りかねません。
今、お子さんを英語教室に通わせておられるかたもおありでしょう。そのお子さんが英語を上手に操れるだけでなく、国際社会で立派に通用する人間に成長していくためには、土台となる日本語の確かな遣い手になるよう配慮することも、是非大切にしていただきたいと思います。
それは、ご家族、とりわけおかあさんが毎日お子さんと交わす会話の場と深く関わることだと思います。また、日本語の確かな読み書きの習得という点からも、お子さんの成長をバックアップすることも忘れないようにしたいものです。