学力形成の基盤は家庭の豊かな会話にある その1
7月 21st, 2014
前々回、前回と、「家庭で交わされる会話の質」が子どもの知的能力に及ぼす影響について、専門家の知見をもとに筆者が考えたことをお伝えしました。
お読みになったおかあさんのなかには、「じゃあ、子どもの学力が低かったとしたら、それは母親のせいだっていうの?」と思われたかたもあるかもしれません。確かに、小学生までの子どもの会話の主たる相手(先生)はおかあさんです。しかし、だからと言って、「自分の責任」という受動的なとらえかたはしないでくださいね。
親が様々な配慮を重ねて子どもを立派に育てるプロセスは、負担であるいっぽう大きな楽しみでもあります。会話も、親子の心の交流の場になるし、そのなかにちょっとした工夫をすることで、子どもの望ましい成長を引き出すことができます。親子の会話が弾めば、おかあさんだって嬉しいですよね。「うちの子はもう大きいから…」と思わずに、今からがんばってみませんか?
楽しい会話のやりとりは、子どもの思考力や表現力を鍛えるだけでなく、前向きな姿勢を育てます。すでに何回か書きましたが、おかあさんと心の通う会話をしているとき、子どもはおかあさんが自分に何を期待しているかを意識の片隅で反芻しています。会話の後、自然と子どもがおかあさんの期待に沿った行動に向かうのは間違いありません。どうでしょう。それだけでも大変な収穫ではありませんか?
さて、今回の本題に入ります。「精密コード」に基づく会話(詳しくは前回の記事を参照ください)が、なぜ学力形成に有利なのかについて、もう少し詳しく考えてみようと思います。
会話が支える学力要素は、主として「聞く」「話す」という側面であろうと思います。精密コードを基調とした会話で育った子どもは、学校で求められる「聞く」「話す」という行為への順応性が極めて高いのが特徴です。
まず、「聞く」ということについて。学校の授業を思い浮かべてみてください。まず何はさておいても、先生の言葉を理解しなければなりません。それができて初めて学習が成立します。ですから、家庭の言葉と学校の言葉との親和性が問われることになります。
もしも家庭で、丁寧で改まった言い回しに慣れていたり、多少難しい言葉を投げかけられても理解できる語彙を養っていたり、少々複雑な構文に基づいた表現を受容できるレベルに耳を鍛えていたなら、学校で先生が用いる言葉に何の違和感も覚えず順応できることでしょう。
ところが、それがうまくいかない子どもが一定数いるのです。端的な例が、前回ご紹介した「限定コード」に偏った会話で育った子どもです。限定コードの会話は、込み入った内容の伝達に向きません。センテンスは短く、省略が多く、感情が混じっており、学習に関わる内容の伝達には不向きです。ですから、学校で先生が使用する言葉とは大きな隔たりがあります。それが学習成果に影響してしまうのです。
そして、もう一つ限定コードの会話に偏った家庭の子どもの大きな弱点があります。それは、先生の語りかける言葉を集中して最後まで聞き通す能力や姿勢に欠けるということです。ただし、近年は弊社の教室に通うような教育熱心な家庭のお子さんにも、同様の傾向が見られるように思います。
ある年、4年部の開講行事を手伝うことがありました。初々しいやる気に満ちた子どもたちとの対面を楽しみにしていたのですが、いざ教室に入ってみると、思いもしない状況に至りました。「おはようございます!」と、元気いっぱいのあいさつをしてくれる子どものなかで、2~3人の子どもが後ろを向いて話し込んでいます。「おいおい、あいさつはちゃんとやろうね」と注意しても、自分に向けられた言葉だとは気付かないのか、相変わらず後ろを向いたまま。これには愕然としました。
この種の子どもが、学力形成でうまくいくことはまずありません。なにしろ、学習上の伝達事項を聞くこともままならないのですから。聞く耳をもたない子どもは、自分が損をするだけでなく、ほかの子どもの勉強の妨げにもなります。
もう一つ、「話す」ことについて。最近の子どもは、上手に話すことが苦手です。上手に話すとは、相手や周囲に伝えたいことを、順序立てて、丁寧に、わかりやすく話すことです。
話すことは、学校では発表の場などを通じて自分の考えを筋道立てて他者に伝えるという形で求められます。そういう経験の繰り返しを通して、伝えたいことを頭のなかで素早くまとめながら他者に発信する能力を養うことができます。それがプレゼン能力やでディベート能力の基礎になりますから、「話す」力も重要な知的能力の一部です。そして、この話す力は学年が進むにつれて重要性を増し、社会人になるとその人の知力を象徴する要素にまでなります。
さて、小学生について考えてみましょう。早口にしゃべる子ども、おしゃべりな子どもならたくさんいます。しかし、そういう子どもも、いざ改まった場でみんなに何かをわかりやすく説明したり、自分の意見に説得力をもたせることが求められたりすると、大概はしどろもどろになるものです。
話す力は、数多くの場数を踏んで磨かれるものです。人と話すことを十分に経験していなければ、決して話し上手にはなれません。生まれながらの資質ではないからです。ただし、会話の時間は長ければよいというものではないし、たくさんしゃべればよいというものでもないことは先刻ご承知でしょう。
ここで、「話す」ことについての書き出しの部分でふれた、「最近の子どもは話すのが下手」という話に立ち返ろうと思います。なぜ下手なのかの理由を考えることが、上手に話す力を磨くための突破口を見出す切り口になると思うからです。
話すのが下手なのは、充実した会話能力を獲得するための経験が不足しているからですが、そのチャンスを与えられる存在はおかあさんしかいません。なにしろ、うまくしゃべれない子どもの話を辛抱して最後まで付き合ってくれる人がほかにいるでしょうか。
子どもは人生経験に乏しいゆえに話す能力が未熟です。だからこそ、おかあさんがわが子のもどかしい話しぶりを遮ることなく、最後までちゃんと聞いてやる必要があります。たいていの大人はやるべきことをたくさん抱えていますから、悠長に子どもの相手をしてやる暇はないかもしれません。しかし、子どもの知的能力の発達にとっては、大変重要な意味をもっています。なんとか、少しの時間でもいいから、お子さんの会話の相手を毎日務めてあげていただきたいものです。
お子さんの話を最後まで聞き届けることは、もう一つお子さんの成長にとってかけがえのないものを生み出すことになります。すでに書いたことがありますが、おかあさんが子どもの話を最後まで聞いてやれば、子どもは、「人の話は最後まで聞くものだ」と悟ります。それが大きな作用をもたらすのです。
先ほどご紹介した筆者の体験を思い出してください。開講式で、後ろの子に話しかけていた子どものことです。ああいう子どもには絶対になりません。おかあさんが、「人の話は向き合って聞き、最後まで聞くものだ」ということを教えておられるからです。
「聞く」と「話す」、この二つは学力形成の基盤になるものです。この二つが確かであれば、いよいよ小学校への通学が始まり、「読む」と「書く」という学習に欠かせない活動が始まってからも、いささかも子どもは困ることはないのですから。
次回は、「読む」と「書く」の発達について考えてみたいと思います。うまくまとまるか自信はありませんが、よろしければ読んでみてください。