成功するための切り札は“才能”ではない
9月 24th, 2018
「ああ、もっと頭のよい人間に生まれていたら…」――あなたはこんなふうに思ったことはありませんか? 今よりずっと若かったころのことですが、筆者はほとんど毎日のようにそんなことを思いながら、自分の能力のなさを嘆いていたように思います。受験を控えている子どもたちは、学力をめぐる競争の場に立たされているのですから、難問と格闘していたり、悪い成績をもらったりしたときなど、同じような心境になるケースが多いのではないかと思います。
しかしながら、心理学や脳科学の専門家の著書を拝読すると、「人間が潜在的にもっている才能は、個々でそう違うものではない」とか、「よい結果は才能だけで得られるわけではない」などという指摘をしばしば目にします。では、結果を引き寄せるにあたって“才能”以上に大きく関与するものがあるとしたら何でしょうか。今回は、それを話題に取り上げてみようと思います。
以下でご紹介するのは、あるアメリカの心理学者が一時期中学校で数学の教員をしていたときの体験を綴ったものです(教職に就いて最初に赴任した、都会の貧困地区にある中学校での体験が紹介されています)。
最初の週からすぐにわかったことは、生徒のなかには数学的概念の呑み込みがずば抜けて速い子が何人かいることだった。クラスでも抜群によくできる生徒たちに教えるのは、とても楽しかった。文字通り、頭の回転が速いのだ。たいしてヒントを与えられなくても、すぐに問題のパターンをつかんでしまう。私が黒板で例題を解くのを見ただけで、「わかった!」と言って、つぎの問題をさっさと解いてしまうのだ。
いっぽう、それほど能力のない生徒たちは、なかなかパターンがつかめずに苦労する。
ところが、最初の学期の成績評価を行ったところ、驚いたことに、能力の高い生徒たちの成績は思っていたほどよくなかった。もちろん、よい成績の生徒もいたが、クラスでもとくに能力の高い生徒に限って、なぜかぱっとせず、なかには成績の悪い生徒もいた。
それとは逆に、最初はなかなか問題が解けずに苦労していた生徒たちのなかには、予想以上によい成績を取った生徒が何人もいた。このようによく伸びた生徒たちは、決まって欠席せず、忘れ物もしなかった。授業中にふざけたり、よそ見をしたりもせず、ノートをしっかり取って、よく質問をした。最初からすぐに問題を理解できなくても、あきらめずに何度も挑戦した。昼休みや午後の選択科目の時間に、「先生、教えてください」と頼んでくることもあった。そうやってこつこつと努力したことが、成績に表れたのだ。
実は、筆者も 似たような体験を学習塾の国語指導の現場でしたことがあります。予習をしっかりやってきている子どもや、授業の反応がとてもよい子ども、発表意欲に満ちた積極的な子どもはどうしても目につきます。新米の授業担当者の頃には、「こういう子どもが優秀なのだろう」と思ったのですが、かなり高い確率で筆者の予想は外れていました。授業で目立たない、地味な感じの子どものなかにテストで確実によい成績をあげる子どもが多かったのです。
まもなく気づいたのですが、予習状況がよいのはすばらしいこととは言え、それが親がかり、家庭教師のサポートによるものでは、やったことが身についているとは限りません。また、発表意欲が旺盛なのもよいことではありますが、それがちゃんとした理解に基づくものであるかどうかは一概に言えません。さらに、筆者が担当していたのは主に男子クラスだったため、ただ目立ちたいために一生懸命手を挙げる子どもも少なくなくありませんでした。自分の考えが的外れでないかどうか、自分の考えを要領よく説明できるかどうか。そういったことを吟味する慎重なタイプの子どものほうがおおむね優秀なのだということが、しばらく経験して分かってきたのです(以上は、外見と実際が違っているという点で似ていることから、筆者の体験としてご紹介しました)。
どうやら、数学に向いているだけではよい成績は取れないらしい。数学の才能があるからといって、数学の成績がよいとは限らない。――このことは、数学的才能がある生徒ほどよくできるだろうと思い込んでいたこの学者にとって、まさに青天の霹靂であり、大きな驚きでした。そして、才能にばかり目を奪われていた自分の視点を修正し、改めて成績を決める要素は何かについて考察しました。
私はしだいに突き詰めて考えていった。授業で新しい章に入っても、生徒たちが問題の考え方をなかなか理解できないことがある。しかし、すぐには理解できない生徒たちも、もう少し粘り強く取り組めば、ちゃんと理解できるのではないだろうか。説明がうまく伝わらない場合は、もっと工夫してほかの説明のしかたを考える必要があるのでは?
「才能には生まれつき差がある」などと決めつけずに、努力の重要性をもっと考慮すべきなのでは? 生徒たちも教える側も、もう少し粘り強くがんばれるように、努力を続ける方法を考えるのは、教師である私の責任なのではないだろうか?
それと同時に思い出したのは、数学が苦手な生徒たちも、自分が本当に興味を持っていることを話すときは、びっくりするほど頭の回転が速くて、生き生きしていることだった。こちらはほとんどついて行けないような会話だ。たとえば、バスケットボールの統計に関する詳しい解説や、大好きな曲の歌詞や、交友関係のややこしい問題(誰が誰を無視するようになって、それにはどんなワケがあるのか)など。
生徒たちのことを深く知るほど、誰もが複雑な日常生活のなかで、さまざまな事柄を理解していることがわかった。はっきり言って、それに比べれば方程式のxの値を求めることのほうがよっぽど簡単ではないだろうか。
生徒たちの能力には、たしかにばらつきがあった。それでも中学1年生の数学に関しては、教師が生徒たちと一緒にじっくり取り組んで、十分な努力を積み重ねれば、きちんと習得できるのではないだろうか。きっとそうにちがいない、と私は思った。みんなあれだけ賢いのだから。
ここまでお読みになったかたは、どんな感想をもたれたでしょうか。この学者は、人生の成功を決めるうえで決定的なものは“才能”ではないと気づき、以後の研究においても成功へと導くものが何かを追求し、研究しておられます。それについてはまたいずれ話題に取り上げてみようと思いますが、とりあえずここまで読まれてもある程度予想がついたのではないでしょうか。
まずは“努力”でしょうか。その言葉も本文中に出ていますね。ほかにも、“興味”という言葉も目につきました。“粘り強く”という言葉もキーワードの一つかもしれません。つまり、学習対象に興味をもち、少々わからなくても粘り強く取り組み、常に努力を怠らない生徒のほうが、一見才能に恵まれているかのように見える生徒を成績で凌駕するということなんですね。
そう言えば、遺伝子の専門家として有名な東京大学の先生の著作に、「才能に恵まれた子どもが1回で覚えられることを、自分は5回かかる。それなら自分の能力を嘆くよりも、5回辛抱してやればいいのです。それでテストの成績が同じなら、少なくとも成績的には対等で同じ能力の持ち主ということになるのですから」といったような記述があったのを思い出します。この姿勢を継続することが“努力”であり、それを繰り返しているうちに能力が高められ、才能に恵まれている人を乗り越えるだけの力がついていくのですね。
子どもが一定年齢に達すると、やることなすことの全ては本人の能力とみなされるようになります。その段階に至るまでに親や周囲の大人が子どもにしてやるべきことがあります。それは、あきらめずに取り組み続ける姿勢をもった人間にすることであり、そのことによって得られるものの大きな価値に気づかせることであろうと思います。
「子どもは、本当に好きなことについては、驚くほど頭の回転が速くなる」といったようなことが先ほどの引用文にもありましたが、そのことはとりもなおさず、一人ひとりに子どもにはすばらしい可能性があるということを意味するのではないでしょうか。