英語習得の前提として大切にすべきこと ~その2~

4月 8th, 2019

 今回の記事は前回のテーマの後編です。もうすぐ小学校で英語が正式教科として導入されることを踏まえ、そのことに興味や関心をもつとともに、不安を感じる保護者もおられることでしょう。今回の記事が、英語学習をどう理解し、どう位置づけるかについて考えていただくきっかけとなれば幸いです。

 日本人は、外国の言葉を自国の言葉に取り入れることに抵抗がない民族だと言われます。その最たるものは中国からの漢字の導入ですが、戦後のカタカナ言葉の急増も同種の現象でしょう。本来は英語の「ランチ」や「ジョイント」などの言葉も、日本人の手になれば「ランチする」とか「ジョイントする」という表現で、いともたやすく日本語化されてしまいます。こうしたことから、「日本語は蟒蛇(うわばみ)のような言葉だ」という指摘があることを、いつだったか何かの本で知りました。

 ところが、いざ正式に中国語や英語を習得するとなると、外国の言葉の切れ端を日本語化して取り込むのとは全く違った様相を呈してきます。日本人は外国の言語を習得するのが苦手なんですね。グローバル化が進展し、世界共通語とされる英語の習得が国をあげての課題とされていますが、親の世代の大半は英語の習得で躓いた経験があり、「うちの子は大丈夫だろうか」「どうしたら、スムーズに英語をマスターできるのだろうか」といった心配をされるケースが多いのではないかと思います。

 しかしながら、筆者がいろいろ調べた限りにおいては、日本で生まれ育った子どもは必然的に第一言語として日本語をマスターすることになります。そのことが中途半端な状態のまま第二言語としての英語の習得に傾倒すると、大変まずいことになるという指摘が数多く見られました。「日本語環境で育った子どもは、まず日本語をしっかりと身につけることが重要だ」ということを、明確な理由をあげて説いておられるかたのひとりが、ロシア語の同時通訳者として活躍された米原万理さん(1950-2006)です。

 以下は、米原さんの著作の一部を引用したものです(長文のため、若干割愛した部分があります)。

 数年前のこと、耳を疑うような発言をした女性人気アナウンサーがいた。自分の勤め先のテレビ局の社長と結婚することになり、たしかその発表記者会見の席上か、あるいは結婚後の取材に応じてだったか、

「私たちは子供を国際人にしたいから、家では一切日本語をしゃべらないことにします。家ではすべて英語を話すようにする」

 と自信満々に言い切ったのだった。

 だがちょっと待て。「国際」という言葉、日本語でも国と国の間という意味。「国際」を意味するインターナショナルという英語だって、メジュドナロードヌイイというロシア語だって、インター、メジュドは「間(あいだ)」を、ナショナルやナロードヌイイは民族あるいは国を意味する。自分の国を持たないで、国際などあり得るのか。

 そもそも日本語が出来るからこそ英語は付加価値になり得るのである。さらには、どんなに英語が上手くとも、自国を知らず、自国語を知らない人間は、それこそ国際的に見て、軽蔑の対象であって、尊敬の対象にはなり得ない。

 くだんのアナウンサー程有名人ではないが、同じ目論見で日本に住みながら子供を英語のみで授業をするインターナショナル・スクールに入れ、家庭内でのコミュニケーションも英語に限定している人たちが私の周囲にも後を絶たない。そして決まって、子供たちが成人する頃になって、重大な過ちを犯していたことに気づくのは、自国の文化的アイデンティティを形成し得なった若い魂が、どれほど不安定で不幸な自我意識に苛まれるかを目の当たりにしてからなのである。

 もちろん、ハーフの人たちや帰国子女のなかにも日本語と外国語の両方を縦横無尽に操る超一級の会議通訳者がいる。個人的な資質もさることながら、その人たちの言語習得史を尋ねてみると、一つの共通点が浮かび上がる。一定の年齢(八~十歳ぐらい)に達するまでは、日本に生活拠点がある場合には、徹底的に日本語のみで意思疎通を図る生活をしてきたというのだ。

 これは外国語学習にあたって、おおいに参考にすべき点だ。まず何はさておき母国語の能力を高めていくことは、外国語がうまく身につく可能性を開くことでもあるのだから。

 どうでしょう。わずか1~2ページほどの引用ですが、それでも「なるほど」と思う部分が筆者にはいくつもありました。米原さん自身、日本で生まれ育った後、小学3年生から中学2年生終了間際までをチェコスロバキア(現在のチェコ)のプラハで過ごし、全ての授業をロシア語で受ける学校に通ったそうです。こうした経緯をもつかたの指摘だけに説得力を感じます。

 米原さんはロシア語の同時通訳者として活躍されましたが、若くして病気でお亡くなりになりました。以下は、上記引用文とおなじ著作にあった著述で、日本人が外国語を上手に操れるようになるために、まずもって何が大切かについて言及されている部分を簡単にピックアップしてご紹介するものです(手短にお伝えするため、やや乱暴にまとめています)。参考にしていただけたなら幸いです。

・老舗の同時通訳派遣会社の社長であるM氏は、講演会で次のようなことを語られた。「通訳をやりたいという人がよく訪ねてきて、自分の英語力をアピールしてくるが、私は自分に訴えてきている、その人の外国語ではなく日本語のほうに注目する。つまり日本語を聞いてこの人は通訳に向いているかどうかを判断する」

・通訳者にとって、母語はかけがえのない商売道具。母語を外国語に置き換える際には、素早く正確な理解力が必要とされるし、外国語を母語に置き換える際には、豊かで的確な表現力が要求される。だから、母語すなわち私どもにとっては日本語の駆使能力は高ければ高いほどいいに決まっているのだ。

・第二言語すなわち最初に身につけた言語の次に身につける言語、多くの場合外国語は、この第一言語よりも、決して上手くはならない。単刀直入に申すならば、日本語が下手な人は、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところは同じなのだろう。

・ロシア人と日本人のハーフの人たちは、二つの言葉を父親の言葉、母親の言葉として母乳とともに吸い込んで育った人たちだ。通訳をめざす人にとっては、よだれが出るような、一見うらやましい言語環境に育ったわけだが、実際には、日本語も、ロシア語も、そしていかなる他の言語もまともに身についてはいない。もちろん日常生活に事欠くほどではないが、しかし、少し複雑な抽象的な話になると、お手上げなのである(※深い思考力を身につけるには、第一言語→第二言語という言語習得の手順が必須のようです)。

 これを読むと、日本人としての思考のコアになる部分をしっかりと形成するには、まともな日本語をまずもって備えることだということのようです。深い次元の思考は、母語がまともに身についていて初めて可能になるのでしょう。

 筆者の知人(外国人)にも、5か国語を不自由なく使えるうらやましい人物がいますが、その人も母国語を習得した後、学問や仕事での必要性が生じて他言語をマスターしています。上記の内容を踏まえると、現在小学生をおもちの保護者は、まずはわが子の日本語習得の状態こそ気にかけるべきであろうと思います。そのうえで、「これから一生懸命英語の学習に取り組んでいけばいいのだ」とお考えになればよいのではないでしょうか。

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