受験をめざす4・5年生だからこそ読書を!
9月 21st, 2020
秋が訪れると、新聞や週刊誌、ネットなどで読書の話題がしきりに取り上げられるようになります。昔から「読書の秋」と言われていますが、確かにしのぎやすくて気持ちの落ち着く秋は「読書」をするにふさわしい季節なんですね。
小学生時代は人生で最も読書に時間が割ける年齢期です。中学生や高校生になると部活や交友、勉強と、いろいろ忙しくなり、読書に割ける時間が少なくなりがちです。ほとんど読書をしない中・高生もかなりいるという調査データもあります。いっぽう、中・高生になっても読書を欠かさない生徒は、小学生の頃に読書の習慣がしっかりと根づき、読書の魅力をよく知っている生徒です。小学生の子どもたちには、今のうちに読書に慣れ親しんでいただきたいですね。
先日新聞誌面に目を通していたら、小学生の読書についての投稿を紹介するコーナーが目に留まりました。そのなかに、学校の休憩時間や自由な時間に寸暇を惜しむように本を読み、他の子どもたちのおしゃべりや遊びに加わらない子どもがいることへの懸念について書かれているものが2~3ありました。数名の投稿における数ですから、かなりの割合のかたが同種の懸念を抱いておられるのかもしれません。確かに、クラスメートが集まって楽しい時間を共有しているなか、一人だけ机に着いて読書をしている子どもがいたら、大概の大人は「社会性やコミュニケーション能力が欠落した人間になるのではないか」と、心配になることでしょう。
しかしながら、投稿者のひとりである小学校教員のかたは、「若い頃はみんなと交わらずに読書をしている子どもがいると心配になったが、やがてそういう子どもも問題ないことがわかってきた。授業に普通に参加し、読書以外の時間に他の子どもと協調できていれば心配要らない」といったようなことを書いておられたと記憶しています。この指摘に筆者も納得した次第です。他者と交わることを拒絶しているのではなく、学校での自由に使える時間には何はさておき読書をしたい。そういう読書好きの子どももいることでしょう。
読書は子どもを孤独に追いやるものではありません。むしろ逆で、活字の世界に入り込み、登場人物と共に数多くの追体験をし、心の動きに同調したり反発したりすることで人間性を培ったり、社会性を養ったりすることができます。特に小学校高学年は、急速に内面の発達が進んでいく時期ですから、読書は単なるエンターテインメントに留まらず、子どもの人間としての成長に少なからぬ影響を及ぼすことでしょう。これについては、筆者の乏しい知識や経験を語るより、専門家の知見に触れていただくほうがよいでしょう。以下は「小学校高学年の発達段階の特質と読書の実態」について書かれたものです。日本子どもの本研究会・編の「子どもの発達と読書の楽しさ」から引用しました。
まず知的発達の面では、具体物を通し外側から見たもので考える段階から、心の中で思考することがはじまる。抽象作用や推理作用が育ってきて、もし自分が、その立場であれば……と仮定した推論が、可能になるのである。
情緒的には、こうしようと自ら決めた課題意図に向かって精力を集中し、持続することができるようになる。「〇〇してはいけない」といった強制的感覚には反発し易く、自律的道徳感覚の感情が芽ばえる。
社会性の面では、自己中心性をぬけ出し、集団的行動、自治的活動に関心がむけられ始め、友情や社会的責任が育ってくる。
読書に関しては一般的には、幼年童話、生活童話から児童文学、思春期文学へと質的に転換し、内容として、友情をテーマとした少年少女物語とか、冒険物語、スポーツ、SF、探偵、空想科学物語へとジャンルを広げていく時期である。
読みかたも、作中の主人公と自分とを対比し、もし自分ならといった思考や、人間と自然・社会とのかかわりとか、生きかた、正義、真理、美への価値、あこがれ、探求心などに共鳴したり批判を加えたりできるようになり、大人の読みかたと接近してくる。この年代に読んで深く感動した本の印象は、大人になっても、心に刻まれている場合が多いことは、自分の読書体験からもいえるように思う。
上記引用文によると、小学校高学年期は、抽象的な思考、自律的道徳感覚、社会性が発達し、内面が大人に近づいていく時期だということがわかります。また、こういう時期の読書は、子どもの人間性の涵養、知的発達に少なからぬ貢献をすることがわかりますね。
中学入試の国語の出題に目を通すと、思春期前後の子どもの行動と心の動きとの関係を問う出題がよく見られます。こういう問題にうまく対処できるかどうかは、内面の思考や人間に対する洞察が大人の域に近づいているかどうかで決まります。いくら問題に数多く当たったところで、内面の思考レベルが幼稚では空回りを延々続けることになりがちです。そういった意味において、小学校4~5年生のお子さんには、読書を大いに励行していただきたいですね。中学受験生であればなおさらです。ただし、読書をしているとき、勉強という観念はどこかへ行ってしまい、子どもはただただ作品の描く世界に引き込まれていきます。だからこそ子どもの内面に変化をもたらすのですね。勉強の一環と位置づける必要はありません。
とは言え、暇さえあれば学校だろうと家庭だろうと、とにかく本をむさぼり読む。そういったことはお勧めできません。受験生の子どもが読書に割ける時間には限りがあります。しかしながら、それをむしろ生かし、決めた時間の範囲で読書を楽しむ生活を実践することで、時間の割り振りという意識を育て、テレビやゲームの時間を含めて、予定したタイムスケジュールに沿って行動を上手に切り替える姿勢を身につけてほしいですね。それができるようになれば、受験生活は辛いものになりません。勉強の効率も上がり、より高いレベルをめざせるようになることでしょう。
さて、最後にご紹介するのは、ロシア語の同時通訳者として活躍された米原万理さん(1950‐2006)の著書(「ガセネッタ&シモネッタ」文春文庫)の一部です。彼女は小3~中2の頃までチェコスロバキアで過ごしました。日本語を身につけるうえで極めて重要な年齢期を外国で過ごしたにもかかわらず、卓越した日本語を駆使し、多くの著書を残しておられます。以下の引用文はその秘密を垣間見させてくれると思います(文字数の関係で、少し簡略にした部分があります)。児童期の読書の影響力の強さを思わずにはいられません。
(外国に移り住むと)日本語のコミュニケーションは、両親と二歳年下の妹との会話に限られることとなった。どんなに知的水準の高い家庭であれ、日常茶飯のやりとりに用いられる語彙や文型は限られているものだ。ましてわが家においてをや。そのうち両親は、他の国々に出張していることのほうが多くなっていった。
それでも日本語との絶縁状態にならなかったのは、半年遅れて船便で届いた荷物の中にあった「少年少女世界文学全集」全50巻のおかげである。いまでも目を瞑(つむ)ると、プラハの自宅の本棚に並ぶ小豆色の背表紙に手が届くような気がする。それほど親しんだ。日本と世界の選りすぐりの名作が収められていて、少なく見積もって20回以上、文字通りボロボロになるまで読んで読んで読み尽くした。
私の日本語話し言葉の発声法とイントネーションの教師は、母親だろう。でも書き言葉初級の教師はまちがいなく「少年少女世界文学全集」全50巻だった。この物語上手な先生は、多様な語彙と文型と文体に、面白く自然な形でまず限りなく出合う機会を与えてくれた。教科書的退屈や押しつけがましさを微塵も感じさせることなく、いつも魅力的な語り口で広大で奥深い日本語の世界に誘い込んでくれたのである。
帰国の際、米原さんは名残惜しい思いをしつつも、後から来る日本人子弟のためにこの全集を譲り置かれたそうです。そして、「代々愛読されたようだから、きっと本冥利に尽きるのではないかと思う」と述べておられました。よい本は、母国語の先生、人生の先生にもなってくれることがわかりますね。
みなさんのお子さんにも、素晴らしい本との出合いがありますように!