「パラポロリン、パラポロリン」
七月六日。携帯電話の警報チャイムが家の中で五台同時に鳴り響いた。外の雨音の大きさも、ニュースの「大雨特別警報」の言葉も、今までに聞いたことのないものだった。明後日は六年生初めての模擬試験の日なので行けるかどうか心配だったけど、祈るしかなかった。
翌朝起きると、僕の住んでいる呉は陸の孤島になっていた。広島へ行く道は、鉄道も、国道も、高速道路さえも土砂で埋まり、山を越えて熊野から行く道だけが、なんとか通れる状態だった。
模擬試験当日、朝五時に起きてお父さんが車で熊野を通って会場まで連れて行ってくれた。車の中から景色を見ていると、あちこちで土砂が道路にはみ出ていて、矢野峠では土砂に流されて潰れた車も見えた。行く途中、車の中では眠れなかったけど、少し早く会場のある西広島につくと、安心感で、始まるまでの間、車内で眠れた。
その日から、当たり前だった日常が消えて、断水、物資不足との闘いだった。風呂に入れず、食べ物は保存食、食器もラップを張って使う日々となった。でも、呉校のみんなに会うとみんな明るく元気で、僕はこの教室の雰囲気に救われた気持ちになった。
呉は被災地になってしまったけど、入試の合否には関係ないので、呉校のみんなと一緒に、この試練を乗り越えてやるぞ、と思った。
その後しばらくして復旧が進みやっと日常が戻って間もない十月。次の試練がやってきた。学校の階段で、調子に乗って九段を飛び降りたとき、右足首が、メリッ、と曲がり、痛みで歩けなくなった。病院で診てもらうと、骨にひびがはいっていた。その日から右足はギプスで固定され、松葉杖と左足だけで歩かないといけなくなった。呉校はエレベーターがなく三階まで上り下りしないといけないけど、T先生やお父さんが背負ってくれたり、T先生やK先生が荷物を持ってくれたりした。背負ってくれる時、大丈夫と言ってくれる先生に申し訳ない気持ちと一緒に、頑張らないといけない気持ちが湧き、骨折の間、一度も休まず通うことができた。
そして、骨折も治っていよいよ入試本番が近づいた十一月。またもや試練がやってきた。妹が右ひざの腫れと痛みで歩けなくなり、入院することになった。骨ずい炎で、点滴を毎日することになり、お母さんは病院で妹にずっと付き添うことになった。お父さんは、お母さんに家の様子の写真を携帯で送りながら、おばあちゃんと一緒に僕の世話をしてくれたけど、僕が一人の時もあった。家で、痛くて歩けなくなって苦しそうな妹や、看病をしているお母さんのことが心配で、勉強に身が入らないこともあった。でも、T先生に、
「今大変なお母さんに心配をかけないようにするには、勉強を頑張ること
だよ。」
と言われ、大変なのは僕だけでないことや勉強を一生懸命することで、みんなが安心して試練に向き合えると気が付いた。それでかえって集中できるようになり、妹も三週間で退院し、安心して年末を迎えた。
一月に入って、入試直前の僕に、お母さん・先生からのメッセージが貼ってある紙を貰った。そこには、
「人事を尽くして 天命を待て」
という、T先生の座右の銘が書かれていた。ここまで、数々の試練を、たくさんの応援で乗り越えてきた僕に、一番の言葉だった。
僕ができることを全部やること、それ以外に道はない。迷いも不安もない気持ちで入試本番を迎えることができた。そしてついに、合格発表の日、学校から帰ると、お母さんが携帯の画面を僕に見せてくれた。
「合格だ。やった!」
手ごたえはあったけれど、やっぱりうれしかった。
先生、家族、友達と試練を乗り越えたこの一年を、僕は一生、忘れない。